車輪人の自転車日本一周・登山の旅 車輪人の自転車日本一周・登山の旅

2003年 4月9日 (水) - 276日目

天気 : 曇時々雨

体調 : 良好

宿泊地 : 梅林公園

本日の移動 : 萩市観光

走行距離 : 23.5km

累計距離 : 11,506km
本日の出費

食費 : 841円

観光費 : 1620円

宿泊費 : 0円

雑費 : 870円

費用詳細 : 観光費:萩史料館・萩城跡・高杉晋作旧宅・松蔭遺墨展示館・歴史館

現在地 : 山口県萩市  ( 全走行図 )

まちじゅう博物館

 萩の観光パンフレットに書いてある「まちじゅう博物館」という文字そのまんまの市内であり、もう街中の散策が面白くて面白くて飽きることなく何日も散策できそうな内容で、おかげで過去最高の写真量を撮ってしまった。そのため編集忙しいがこれでもなかり減らしたほうなのだ。もう朝から観光一色で、この日記をどこからどこまで書いたらいいのか今迷っている。写真ひとつひとつ述べたら終わりそうもないし、また、歴史の興味ない人にとっては退屈なものになりそうだ。でも、逆にこれで少しでも興味をもってぅれたら、知ってもらえたらなと思い、それなりに今日の観光を触れていきたちと思う。

 そんな観光盛りだくさんの今朝は5時半起床。露天設営だったために雨が心配だったが、降られることなく気持ちいい朝を迎えた。騒がしい軒下を避けて、ちょっと離れた空地公園の為に人目気にすることなく、のんびりと朝の朝食準備&日記の更新作業へと入った。そして今日もやっぱり全て遣り終えるには3時間以上掛かってしまい、出発は9時となってしまった。

 さあ、前々から楽しみにしていた萩観光スタートだ!まずはどこから行こうか迷いに迷ったが、どの町でもシンボル的存在である城跡へとまずは行ってみることにした。萩の町は中洲の中にほとんどといっていいほど治まっている。逆に言えばこの中洲以外には平地は驚くほど少ない。そのため”田んぼ”という存在が見受けられない。昨日この萩へ入る前に山を切り崩して作られた棚田を見たのが最後のような気がする。米文化の日本にとっては数少ない城下町だろう。またそんな土地柄だから大規模な工業もない。そんなことから大戦時には空爆にあうことなく、町は幕末の姿を温存し、さらには町のみんなの保存という取り組みもあって今こうして美しい町並みが広がっている。そんな中を気持ちよく城に向って走り始めた。

 城は中州の海側の端にある山腹に建てられていた。この中洲の中で唯一の山だけにとても目立つ存在で迷うことなく城跡へと到着した。すぐ城跡散策へとはいろうとしたが、その前にちょっと歴史をお勉強と、すぐ前にある萩史料館へと入った。料金は500円とちょっと高いがせっかく楽しみにして来たのだからと奮発するが、ここは失敗・・・ 自分にとって惹かれる展示物はなく、掛け軸や宝物ばかりで歴史についての展示はほとんどなく、珍しくあっという間に見学を終えてしまった。500円払ったのにと、かなり後悔しながら後にした。

 このあと城跡も見学、なんとここも有料で・・・ 先ほどの痛手もあり辞めようかなとも思ったが、城前の厚狭毛利邸と共通券ということもあって結局奮発した。城跡だけに基本的には何もないが、でも各所に説明書が設置され、また福原家書院等の建物も移築展示されていた。そして奥には神社があり、庭園あり、それなりに楽しめる内容となっていた。ちなみにこの城は明治初期に払い下げられ城は撤去されてしまったそうだ。

石垣だけが残る萩城
萩城の説明
明治初期の萩城の写真

 城前の一等地というべきところに厚狭毛利家長屋がありここも券共通で入れる。名前の通り毛利一門の方だけに、巨大な屋敷である。ただ、残念なのは肝心の主屋、庭園などは明治維新前後に解体されてしまっていて、今も残るこの長屋だけとなってしまっている。それでも萩の建物の中で一番大規模なものだそうだ。

 城周りの観光を終えて萩の武家屋敷へと向った。そんな道中に巨大な銅像があり名は「田中義一」と書かれていた。どこかで聞いたことあるな、と思って説明を読むと、軍人から最後は総理までにのぼった方であった。昭和2年で総理となり、日本が満州にむけ侵略主義へと突き進む時期であり、今となっては汚名の為か、そのことについては説明書きには書かれていなかった。

萩城内の神社にて参拝
元首相・田中義一像
田中義一の説明

 萩の武家屋敷はさすが全国に名を轟かすだけあって大規模なものであった。延々と続く屋敷塀、この頃から雨がポツポツと降り出したが、そんな雨の景色もこの武家屋敷にはよく似合っていた。周布家長屋、木戸孝允宅、高杉晋作宅などなどたくさんの旧宅を見てまわり、家によってはたくさんの資料が置かれ、また無料案内人の方も居てくれて、説明してくれるのが嬉しい。温かい町の取り組みだ。温かいといえばこの町全てが温かい雰囲気を持っている。何が違うのかとよく見てみるとまずは標識がなく、そして道幅も狭く、その区画までも江戸期そのまんまだそうだ。また、この辺りは高い鉄筋ビルが見当たらない、まるでタイムスリップしたかのような世界に落ち着きがあるためだろう。また、ある箇所によっては町の雰囲気を壊さない様に舗装路としていない箇所もあった。そんな町の方みんなで生んだ努力がこうして町に現れていた。

木戸孝允旧宅
萩の武家屋敷
白壁も延々と続く
高杉晋作旧宅
高杉晋作の説明
伊藤・高杉ゆかりの円政治

 こうして武家屋敷を徒歩でのんびり観光後、また自転車にまたがり今度は明倫館へといってみたのだが、道中で雨はどんどん激しくなり、数キロの距離ではあるがたどり着けずに雨宿り・・・ 天気予報では”曇のち晴”とそんな天気を期待して出てきたのに、今日はこのあと一日降ったり止んだりを繰り返す天気になってしまった。ただ、大きく降られたのはこの時だけであっただけでもよかった。20分ほどの雨宿りで霧雨の中、出発した。

 今度は藩校跡で今もこの敷地は明倫小学校等の教育の場として使用されていた。その小学校がまた驚くところで、昭和初期に作られた巨大な4棟からなる木造校舎が今も現役として使われていた。そんな校舎隣に有備館が残り、そして裏手には石で覆われた水練池という水中騎馬練習場も残されていた。

 この跡は裏手へと入って、牢獄跡地を見学した。今は敷地の一角が残るのみで、そこには碑が建てられていた。ここが牢獄として建てられた理由がこの看板に書かれていて、そのいわれが以外であった。ちなみにこの場所は、このあと見学する吉田松陰も牢獄させられたところである。

山県有朋像
今日も雨宿り・・・
藩士の学校・有備館
現役・明倫小学校
小学校は4棟からなる!
明倫館周辺説明
水練&水中騎馬訓練場
水練池
野山獄跡
野山獄&岩倉獄の説明

 吉田松蔭、今からの見学はその方のゆかりの地となる松蔭神社を中心にまわることになる。幕末、日本各国を遊学後、私塾を開き、たくさんの人たちに影響を与えてきた。幕末・明治の萩の人ほとんどがなんだかの関わりを持っていたと言っても言い過ぎではないほどだ。そんな松蔭を奉る神社がこの松蔭神社であり、その境内には松下村塾などはじめ残されていて、さらに歴史資料館、遺墨展示館なども建てられていた。この遺墨展示館は書物がただ置かれているだけだと思い入館を迷ったが、それでも入ってみると、以外や生涯と共に遺墨書とその説明が書かれていて、これが面白いこと。小さな資料館ではあるが見応えは私にとっては十分であった。さらに、歴史資料館へも入館した。ここは割引券を使っても600円と高いが、蝋人形展示場としては安いほうかもしれないと思い奮発した。中は分かりやすく松蔭の生涯を人形と共に紹介していくないようで、その場面場面は再現されているだけに実感沸きやすいものであったが、ただ内容事態には分かりやすい反面、詳しいことについては述べられていなかった。

萩の乱!前原一誠
前原一誠の説明
松蔭神社
講堂・松下村塾
松下村塾の説明
蝋人形並ぶ
吉田松陰歴史館

 境内の観光を終えて、そのままそこに自転車を置いて周辺観光へと出かけた。まずは松蔭の影響を受けた一人でもある伊藤博文、この方は幕末時には志士として、後には新政府の中核として活躍、さらに初代総理までのぼりつめた人だ。萩にはそんな方の旧宅と、そして東京に建てられていた家屋が今ここに別邸としてそのまま再現されていた。その別邸は驚くほど大きく、展示されているパネル写真を見ながらのんびり散策した。奥には生涯の写真集があり、その豊富な量から幕末から明治の姿を博文と共に魅せてくれていた。

 博文邸からさらに上って行くと、松蔭の叔父にあたり、また教育の元でもある玉木文之進の旧宅が残され、さらに萩市街を見下ろすところまで上って行くと、松蔭生誕の地が残されていたのだが、今は碑と銅像が建てられているのみだった。また、道を挟んで、墓地となっていてそこには松蔭を含めその血族、ゆかりの人々の墓がずらりと並んでいた。

 こうして散策を続け、帰り際に毛利氏の菩提寺でもあり、また毛利氏墓の前に並ぶ約500基の石灯籠が並ぶ壮観な姿が見れるという東光寺へと参拝しようと思ったのだが、有料施設の為に断念、またあまりの出費の激しさに断念・・・ 入り口よりその様子を窺うのみにして後にした。

巨大な伊藤博文別邸
別邸&博文の説明
松陰&金子重之助像
町を見下ろす
松蔭生誕の地
毛利の菩提寺・東光寺
桜咲く中国自然歩道

 こうして松蔭ゆかりの土地の散策を終えて、最後の観光、藍場川へと向った。ここは川から水をひいて作られた人工川で、農業、生活用水として使われていたそうで、この辺りの家屋にはほとんど庭までさらに水を引き、池を作りさらには、炊事場まで水を流れ入れていた。また、この水路は昔は川舟も通し、物資の輸送にも使われていたそうだ。今もその面影を充分に残し、そして川には鯉が放流され、風情あるのんびりした空間がそこにはあった。

 そんな川沿いに立つ家々のひとつに桂太郎旧宅がある。この方も幕末の志士として活躍し、のち明治政府の下、日英同盟を結束、さらには総理も勤めた人で、そんな偉大な方の説明を案内人の方が詳しく説明してくれて、自分もそれらが面白くここでは1時間ほどお話していただいた。

藍場川
屋内にも水路が・・・

  この桂太郎邸の庭先には、はじめて見る面白いものがあった「水琴窟」と呼ばれるもので、水を地面に注ぐと、カランカランカランっと、鉄琴のような高く美しい音色を立てた。あまりの美しさに物凄いカラクリが仕込まれているのかと思いきや、中には水の入った瓶状の物が据え付けられているだけで、その水に落ちる音が反響してこのような美しい音色に変わるのだという。その云われについて気になり訪ねてみたが、その方も分からないということだった。今こうして落ち着いてからPC辞典で調べてみると、江戸期の庭師が考案した日本庭園独自のものだそうだ。それにしても、面白いものを考案するものが庭園には潜んでいるものだ。

 時刻は17時、こうして今日の萩の観光を終えて寝床探しへと出かけた。明日の観光も考えて今日は萩市の南外れにある道の駅・萩往還公園へと向った。途中、スーパーで買出しをしながらむかったのだが、以外に距離があり、また坂も予想以上にきつく苦労していたときに、ある公園を発見した。散策してみると、野宿にはもってこいの公園でそこに決定!!そんな梅林公園で大崎さんと知り合った。仕事の時間調整中とのことで、このあと2時間ほどいろんな萩の話を聞かせてくれた。またいろんな夢を持っている方で、それを一歩一歩実現に向けて努力中の方でもあり、そんなところに惹かれ、19時半頃まで長々とお話していただいた。

 このあとはやっぱりいつものHP更新作業、今日は写真盛りだくさんで一生懸命作業してもなかなか進まず、今日も明日に残して23時ごろ就寝した。

銅像建つ桂太郎旧宅
桂太郎の説明
梅林公園にて
知り合った大崎さんと♪



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